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江戸時代初期に作られた「豊臣期 大坂図屏風」が、オーストラリアのエッゲンベルク城で発見されたんですね。その美しさにも驚きましたが、その運命にもビックリです!
エピソード1 秀吉の大坂 よみがえる幻の都
・「大阪図屏風」には城の北側にある鮮やかで豪華な「極楽橋」が描かれている。その先に石清水八幡宮、平等院鳳凰堂があり、朝廷のある京都があった。朝廷をしのぐ権威を示すため作られた(→CGの再現映像が美しいです)
・大坂城は惣構(そうがまえ)で大きな軍事施設であることがわかる。甲子園球場ほどの大きさの馬出曲輪(うまだしくるわ)がある。人が中から外の敵を攻撃できる多聞櫓(たもんやぐら)を備えていた
・働く商人の姿もある。商業地区の船場(せんば)が作られた。今でも使われている「太閤下水」を備えている
→秀吉の大坂は、天下人の権威と軍事力、そして経済力を併せ持つ、最先端の巨大都市
エピソード2 日本の屏風を輸出せよ 外国商人 涙の奮闘記
・「大坂図屏風」はオランダの東インド会社を運んだと言われる。九州平戸にいたオランダ商館長は、20ほどの豪華な屏風の注文を受ける
・屏風はヨーロッパで人気があったが、運ぶには水濡れや虫食いの問題があった→油紙で包み、こしょうで虫除けしたと考えられる
・何度かの輸送のうち、成功したのは1回だけ
エピソード3 偶然のいたずら?「大坂図屏風」数奇な運命
・「大坂図屏風」はオーストラリアのグラーツから4kmにあるエッゲンベルク城で発見される
・当時は、皇帝や貴族が美術品や工芸品を集めていて、日本ブームが起こっていた。エッゲンベルク家が仕えていたパプスブルク家も収集していた
・やがてパプスブルク家が弱体化し、エッゲンベルク家の当主のヨハン・ザイフリートが死に、工芸品は売り払われる
・「大坂図屏風」だけは残る!なぜ?
→屏風は100年たつと蝶番(蝶つがい)が痛み、売り物にならない
→ヨハン・ザイフリートの孫・マリア・エレオノーラがさびれたエッゲンベルク城を修復しようと、「大坂図屏風」に目をつける
→「大坂図屏風」の裏は、カンバスで補修されていた。壁にはめこまれ、深い眠りにつく
→第2次世界大戦でソ連がオーストラリアへ進攻し、残された美術品が略奪されるが、壁と一体化して、価値を見過ごされる
→2005年、ドイツのケルン大学のエームケ教授が、「大坂図屏風」を発見!
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